
「あいつが悪い」「誰か1人が悪いわけではない」はどちらも反知性的だ!
このサブタイトルを見て不快に思っただろうか?その不快感こそ「その認知コストは高すぎる」という脳の悲鳴だ。
何かの「悪い結果」が起きる要因を解析してみると、結果に大きな影響を与えた根本原因は確かに存在していることが多い。だが、大抵はその原因は「誰か」ではなく仕組み・構造・方法にある。
なぜ、人間は構造的問題に背を向けて責任を個人に求めようとするのか、あるいは、個人に責任を負わせるのは間違っているという「道徳」を理由に「誰か1人が悪いわけではない」という責任の希釈・問題と向き合うことからの逃避をしやすいのかを考えてみよう。
- 「あいつが悪い」「誰か1人が悪いわけではない」はどちらも反知性的だ!
- 脳内モデルの精密化とそのコストのバランスって微妙じゃね?
- 偽モデルへの逃避の次は、思考停止が来る!
- 「現象」と「原因」を区別するのが最低限の「認知コスト」なんじゃね?
- まとめ:知ったらもう、戻れない
脳内モデルの精密化とそのコストのバランスって微妙じゃね?
人間の脳の基本機能の1つは、外界をシミュレートする脳内モデル(こうすれば、こうなる)を用いて自分が外界に対して起こすアクションの結果(報酬)を予測し、その結果をフィードバックすることで脳内モデルの精密化を図ることだ。
脳には「予測可能であることを好み、不確実なことを嫌う」性質がある。
一方で、脳は人体最大のエネルギー消費器官の一つだ。だから、脳には「エネルギーを使わないことを好む」性質もある。
ここに、脳はエネルギーを節約する目的で(いちいち深く考えなくても外界を予測できるように)モデルを作ろうとしているのに、そのモデル構築にエネルギーが必要だ、というジレンマが起きる。
この、モデル構築のために脳が消費する資源が「認知コスト」だ。
脳は怠惰でズルをするものだって、実感あるよね?
脳は認知コストを節約するため、常にモデルの単純化を試みる。
QC(品質管理)において、パレート分析して結果への影響が大きい要因を洗い出したり、品質工学で感度分析をしたりすることは、脳の行っているモデルの単純化を外部化・手続き化したものといえるだろう。
だが、モデルを単純化するには、一旦はモデルをある程度高い解像度で捉える必要がある。QCではPDPC法によって要因が結果につながる流れを解析することなどがそれにあたる。
この「解析のためのコスト」が支払えない(それは怠惰であるのかもしれないし、能力不足ということもあるかもしれない)とき、脳は「分からない」=モデルの構築失敗という不安から逃れるために、仮初めの安心を得ようとズルをすることがある。
それが、安易な偽のモデルへの逃避だ。
それって原因じゃなくて現象じゃね?
2026年のWBC、侍ジャパンのベネズエラ戦敗北は多くの感情的な反応を引き起こした。
まず「戦犯」として叩かれたのが逆転の3ランを浴びた伊藤大海投手だ。SNSでは伊藤投手や、打者としては打率.000に終わった近藤健介選手への誹謗中傷が相次いだ。
これは「〇〇という1人が悪い」という雑な偽のモデルへの逃避、責任の属人化だ。
一方で選手に対する「戦犯」扱いが不適切だということは多くの人が認識している。事実、敗退後比較的すぐに誹謗中傷への批判も起きた。
この批判の多くは道徳的ではあるが、分析的ではない。なぜなら、ほとんどの批判は「伊藤投手が打たれたことも、近藤選手が打てなかったことも、敗北の原因ではなく、試合中に起きた現象、つまり結果だということ」に気付いていないからだ。
偽モデルから偽モデルへの逃避、いかにも起きそうじゃね?
伊藤投手や近藤選手を擁護する意見の多くは、責任をベンチに向けようとする。
だが、ベンチ、とりわけ監督を引き受けた井端氏に責任があると考えることは、本質的に「問題のありかは人間にあるという雑な偽のモデル」への逃避という点で、選手を「戦犯」に仕立てることと何も変わらない。
侍ジャパンのチーム編成では、井端監督自身が渡米しMLBの関係者と何度も会わなければならなかったという。井端氏としてはそのような時間は別のことに使いたかったのではないか。
本人の実際の心中は分からないが、1つはっきりしているのは、井端氏が渡米のための時間をムダだと考えたとしても、それを変えるための十分な権限は与えられていなかったということだ。
監督ですら責任を引き受けるに足る権限がなかったというのに戦犯探しをする――それは、できるはずのないことができなかったと言って非難する理不尽なのではないか。
偽モデルへの逃避の次は、思考停止が来る!
先にも触れたように「責任を1人に求めることは間違っている」ということは道徳的に広く認知されている。
道徳・社会規範により偽のモデルへの逃避を止められた脳は、それでも認知コストを支払いたくない。そこで選択するのが思考停止だ。
それも、道徳という「正論」を手にしたことでそれ以上の分析は必要ないという全能感(=コストを支払う必要がないという免罪符)を得るという巧妙な形でだ。
「個人への批判は萎縮を生むだけだ」って言うと、自分はバカとは違うって安心できるよね?
WBCの敗北を巡る意見の中で目立ったものの1つが、「個人への批判は選手を萎縮させるだけだから控えるべきだ」というものだ。
言っていること自体は正しい。だが、問題の構造的分析に進まずにこれを言って終わり、というのはいただけない。なぜなら、道徳を前面に押し出した批判は、その正義性が相手を黙らせることを目的化するからだ。
議論の停止を目的とした自己満足は有害としか言いようがない。このような意見を示すのであれば、どんなに拙くても問題の構造に向き合う姿勢を見せて欲しい。
「誰か1人が悪いのではない。みんなに原因があった」って、なんで人間に原因がある前提なんだよ?
個人への批判へのカウンターとしてよくみられる「みんなに原因があったのだから、個人への批判は間違っている」という意見はもっとタチが悪い。
なぜならこれは、責任を属人化させたまま、責任を分散してウヤムヤにする言葉だからだ。これが口にされた瞬間、あらゆる内部からの批判は、自分の責任からの逃避として捉えられるようになる。問題の構造分析は放棄され、「一人ひとりの反省」というキレイな言葉で収められてしまう。
これを口にする人の脳は、偽のモデルにしがみついたまま、思考の停止を試みているのだ。これが反知性的でなくて何だというのか。
「現象」と「原因」を区別するのが最低限の「認知コスト」なんじゃね?
組織のPDCAが失敗する主な原因の1つは、問題を引き起こしている要因の分析失敗だ。
そこでQCではモデル把握や要因解析のために様々のツールを用意している。PDPC法による要因から結果に至る経路の分析のほか、「なぜなぜ分析」のような原始的方法も有用だ。
このようなツールが必要となることは、逆説的に人間の脳は簡単に現象(結果)自体を原因(要因)と誤認することを意味している。
「原因」と思っているものが実は「現象」なのではないか、と疑うこと――それが、わたしたちが支払うべき最低限の認知コストなのではないだろうか。
で、WBCで負けた要因はどうなのよ?
正直、私は侍ジャパンが勝とうが負けようが割とどうでもいいし、この件は責任の属人化の例として手頃なものを取り上げただけなので要因解析に興味はない。
だが、これだけSNS上の反知性的行動をこき下ろしておいて何の分析もせずに終わらせるのも不誠実というものだろう。
NPBのスケジュールとWBCのスケジュールの関係性、世界のトレンドと日本の野球との基本戦略の違いなど、既に多くの構造的分析がなされているが、私は1つの要因として、強化委員会の目的が「勝利」ではなかった可能性に注目している。
野球は実力通りに確実に勝利することが難しいスポーツだ。しかも、侍ジャパンは前回2023年WBCの優勝の実績から、優勝以外は「失敗」というプレッシャーに晒されていた。このような状況で、「勝利できなくとも最大の利益が得られる戦略」をとることは極めて合理的だ。
強化委員会は(無意識的にかもしれないが)目的を勝利よりも「物語の提供」に置くことになったのではないか、というのが私の分析だ。招集に苦労しながらも過去最大の8名のMLB選手を集め「大谷翔平選手を始めとするMLBの最強日本選手が大活躍し、優勝する」という「夢」を演出する……それには実際のところ、完全に成功したといえるだろう。
まとめ:知ったらもう、戻れない
あなたは、これを読んでしまった。責任を個人に属人化させたり、一人ひとりが悪かったと連帯責任に逃げたりすることは、認知コストを払い渋る反知性だと知ってしまった。
もう取り返しがつかない。
だが、悲観することはない。認知コストは支払えば支払うほど、決済能力が上がっていく。反知性の海に沈まないよう、もがき続けるのが人間だ。
一緒にこの地獄を楽しもうぜヒャッホー!