
新年度、それは歓迎会シーズンでもある
始めに断っておくが、私は飲み会が(より正確には酒が)大好きだ。ゆえに、職場に新人やって来ればこれ幸いと歓迎会を企画するのだが……ご本人が飲めない・飲まない、と聞くと大変残念な気持ちになってしまう。とりあえず自分が飲みたいから歓迎会は必ず強行されるのだが。
さて、このような半ば強制された飲み会、昨今の若者には好まれないという言説もあるようだ。もし、配属された新人さんから歓迎会をお断りされたら……私の場合は主に歓迎にかこつけて飲みたいだけなので「残念」が先行するのだが、怒りや不快感を感じる人がいることも大いに理解できる。
このような宴会、不必要だとか、嫌いだとか言われることもあるけれども、その「機能」を考えてみるとなかなか侮れないものがある。以下の考察は、酒大好き人間の宴会正当化ではない。ないったらない。
- 新年度、それは歓迎会シーズンでもある
- 日本って関係性重視=性善説文化なんじゃね?
- 性善説の脳内モデル
- いや常に相手の信頼に応えるって無理でしょ?
- じゃあ、本音はどこへ行く?
- 歓迎会って、コスパ最高の内集団加入儀式じゃね?
日本って関係性重視=性善説文化なんじゃね?
飲み会について、日本社会の構造から読み解いてみよう。
日本とイランの類似性について書いたときにも触れているが、日本の文化というのは契約よりも関係性を重視しやすい特徴を持っているようだ。
これは日本では契約よりも関係性の方が優越しているという意味ではない。契約というのは守られるために存在するもので、契約を守らず補償にも応じないとすれば世界のどこでもただの無法者だろう。
この「関係性重視」というのは契約のあり方の問題だ。
性善説って、裏切り者は許さねえってことだ
契約というのはいつでも穴があるものだ。
契約を重視する社会では、契約の穴は堂々と利用される。それを防ぐために契約の精度を上げ、同時に穴を見つけ出して相手を出し抜く……そのため、契約を結ぶというのは一種の戦いといえる。お互いの主張をぶつけ合う契約前の段階では相手との関係性は特に必要なく、契約の成立により相手との関係性が成立するとすらいえる。
相手は契約に穴があれば利用してくる存在という仮定、これはいわゆる性悪説だ。元々穴があれば利用されると考えているわけだから、契約の穴を突かれることは単なる「負け」と認識される。
一方、関係性を重視する社会では契約の穴を利用することは極めて危険な行為となる。それは相手への貸しとなり、程度が過ぎれば相手との関係性が断絶して敵になってしまう。「不義理なこと」ができないよう、お互いの関係構築は契約締結より前に開始されているからだ。
相手は「契約に穴があっても利用しない存在」という仮定、こちらは性善説といえるだろう。義理があるはずの相手がその穴を突く……これは契約以前の社会的合意を覆す「裏切り」なので、強い怒りを引き起こす。性善説というのは決してお人好しという意味ではなく、義理を軽んじ筋を通さない相手に対する厳しい制裁と表裏一体の指向性なのだ。
建前って、裏切りたくない気持ちの表れじゃね?
本音と建前の使い分けを、日本人の悪癖と考えている人は多いようだ。だが、建前というのは悪いものなのだろうか?
契約にも色々あるが、口約束も契約の一つだ。例えばこんなものを考えてみよう。
A「今度飲みに行きましょう」 B「はい、機会があれば、是非」
私たちはこの契約が果たされなくても大丈夫だと知っている。それは暗黙の合意の下に設けられた「機会があれば」という「利用して良い穴」があるからだ。
この会話は本音と建前の組み合わせで以下のように4通りの解釈ができる。
① AはBと飲みに行く関係性があると本音で言っている。BもまたAと飲みに行きたいが、Aの誘いが建前である可能性に配慮している。あるいは、BはAの誘いを本気にすれば自分が期待する関係性が裏切られてしまう可能性があるので、それへの防御を図っている。
② AはBと飲みに行く関係性があると本音で言っている。Bの本音はAとはそのような関係ではないというものだが、Aが本音で期待するかもしれない関係性を裏切らないように建前で合意している。
③ Aの本音はBと飲みに行く関係性はないというものだが、Bもまたそう考えているとは限らないので建前として飲みに誘う。BはAと飲みに行きたいが、Aの誘いが建前である可能性に配慮している。あるいは、BはAの誘いを本気にすれば自分が期待する関係性が裏切られてしまう可能性があるので、それへの防御を図っている。
④ Aの本音はBと飲みに行く関係性はないというものだが、Bもまたそう考えているとは限らないので建前として飲みに誘う。Bの本音もまたAと飲みに行くほどの関係ではないというものだが、Aが本音で誘っている可能性に配慮して建前で合意している。
こうしてみると、建前には「一緒に飲みに行ける仲」という関係性への期待(これもまた社会的契約の一つだろう)を互いに裏切らずに済むようにする機能があることが分かる。
関係性重視の社会の根底には「信頼には信頼で応える」というメタ契約があり、その契約が裏切られることを防ぐために発達したのが建前なのではないだろうか。
性善説の脳内モデル
関係性重視の社会には「信頼には信頼で応える」というメタ契約があると述べたが、これはこのような社会に所属している人々が共有する脳内モデルと言い換えることができる。
つまり脳内にある「人間のシミュレータ」に「相手への信頼」というインプットをすれば「自分への信頼」というアウトプットが返ってくるというわけだ。そして、相手にも自分と似たような脳内モデルがある、と仮定することもまた「相手への信頼」の一つだ。この再帰により、信頼への返報性という脳内モデルは組織や社会全体に共有される。
この再帰によるモデルの共有は次の2つの影響をもたらす。
①裏切り者の徹底した排除
人間は人から信頼を向けられる、つまり「モデルにより予測可能な存在である」と認識されていると感じると、オキシトシンレベルが上昇する。
人に信頼を向けられオキシトシンレベルが上がると、「相手の信頼に応える」という社会的報酬の価値が高くなり、相手の信頼に応えるための行動を選択しやすくなる。この仕組みが「信頼には信頼で応えるべき」という価値観の源泉だ。
さらにオキシトシンの作用は同時に、社会的報酬の実現を妨げる存在への注意を強化し、それを排除する行動を選択しやすくさせる側面も持つ。
その結果、集団は結束し、集団外の存在には敵対的になる。これが内集団バイアスだ。
誰もが信頼の返報性を信じている集団で信頼を裏切ることは、相手だけではなく集団への裏切りになる。集団が共有する人間シミュレータの応答とは異なる応答をしてしまう……それはもはや集団の一員とは認められないことを意味する。
これに内集団バイアスが加わることで、信頼を裏切った個人はたちまち集団外部の敵対的個体として認識されることになるのだ。
②脳内モデルの更新不能
脳内に存在する外界予測のためのモデルは、報酬予測誤差を利用したフィードバック(このブログではこれを脳PDCAモデルと呼んでいる)により更新され、次第に精密になっていく性質がある。
だが、「信頼には信頼が返ってくる」というモデルは再帰により集団に共有されるため、自分のモデルだけを更新することができない。そのため、このモデルは集団が解体されたり、自分が集団から離れたりといったことが起きない限り永久に固定されてしまう。
信頼の返報性は、自分がその集団に属し続ける限り逃れることができない呪いのようなものといってよいだろう。
いや常に相手の信頼に応えるって無理でしょ?
相手からの信頼には常に応えよ、それは当然のことを言っているように聞こえるかもしれないが、これは不可能だ。飲みへの誘いの例から分かるように、そもそも私たちは相手から信頼されているかどうかさえ、正確に知ることができないのだから。
「信頼には信頼で応える」というのは、実は「相手の信頼は正確に把握できる」という不可能な前提の上に立っているわけだ。
建前を利用することで、この矛盾は回避することができる。
相手の信頼が不確定な状況で、信頼があるものと仮定して建前を置いておく。それによって、相手からの信頼はあってもなくても大丈夫なようにする。
これが先に示した飲みに誘う短い会話の、より精密かつ端的な説明だ。
じゃあ、本音はどこへ行く?
集団は建前によって安定するが、誰もが本音を隠し続け、建前だけで繋がった集団は「内集団」、平たく言えば「仲間」といえるだろうか?
そこで集団は「場」を利用する。
例えば職場は建前が支配する場で、そこで本音を晒すことは集団の結束を乱す裏切り行為とみなされる。それに対し、アンオフィシャルな場では本音を出しても良い。そして、アンオフィシャルな場で晒された本音はオフィシャルな場には持ち込まない、という「建前」にすれば、安全に本音を共有できる。
そのようなアンオフィシャルな場として利用されるのは、喫煙室、ファミレス、喫茶店、そして居酒屋といった場だ。
外部の人間が集団に入ったり、交渉したりする場合、このようなアンオフィシャルの場で本音を晒すことは、その人を内集団の一員として受け入れる通過儀礼となるのだ。
歓迎会って、コスパ最高の内集団加入儀式じゃね?
歓迎会への参加は任意であるべきだし、参加を強要するような組織は不健全だ。
だが、関係性が重視され、本音と建前を使い分けるこの社会において、歓迎会に参加することは心理的に自分が組織の一員として受け入れられるための最も簡単な方法だということはおそらく間違いない。
歓迎会の多くは無礼講*1とされ、アルコールは建前の建付けを緩めて本音を晒させる。飲み会はそれを職場の人に安全に受け取ってもらうための機能を持っているのだ。
歓迎会、参加を断ってしまったあなたは、内集団への加入コストを過剰に見積もっているのかもしれない……まだ間に合うなら「参加してみる」という選択肢を再考してみても良いかもしれませんよ?
*1:ちなみに無礼講を無礼+講と解釈して無礼をはたらいても良いと勘違いしてはいけない。これは無+礼講のことで、神に杯を捧げる礼講という儀式を省く、つまり形式張らない気楽な宴会という意味だ。