平家物語の前半は、平清盛の死に向かって、清盛へのヘイトを積み上げるための「機能を持った死」が多い。それでも宇治橋の戦いでは源頼政をはじめ武士の「情念の凍結のための美しい死」が描かれている。
私たちが感じる「美しい死」の源流は既に古事記に見られるが、その後、死は祟り・穢れの対象に変わった。 しかし、無常観と情念が怨霊化することへの恐怖が結合して「情念の凍結」という現在の美しい死の形が完成したのではないか。
「誰かが悪い」も「連帯責任」も、悪いことの原因を「人」に求めている時点で問題の構造的原因から逃避している反知性だ。 せめて「悪いという現象」と「現象を引き起こす原因」の区別をして見る程度の認知コストは支払うのが知性ってものじゃないかな?
日本の「引き算の美」はミニマリズムではない。共有されたフレームワークによる「説明の省略技術」だ。枕詞や季語はプログラムへのライブラリインポートに等しく、書かれなかった情報をも読み手に読み込ませる機能がある。
関係性を重視する日本文化では本音と建前の使い分けが発達し、居酒屋は安全に本音を共有する機能を持つ 新人歓迎会に参加することは最もコスパの良い通過儀礼だ
日本とイランは宗教や気候の違いは大きいけれど、どちらも一貫した独自の文化を誇る、良くも悪くも共通点が多い国同士だった。 80年前にアメリカとガチでケンカした日本、今アメリカと殴り合っているイラン、やっぱり似ているよね?
災害時の助け合いや秩序は日本人特有ではなく、オキシトシンの作用で説明可能な人類普遍の現象だ。 トイレットペーパーの買い占めを起こす残念な国民性は暴動と無縁ともいえず、略奪・暴動が少ないのは被災地の支援にコミットする社会システムによるところが…
自転車の青切符導入に対する批判には合理的な側面もあるが、その主体は「自転車は歩行者の延長」という古い脳内モデルの更新コストに対する抵抗、つまり化石脳の告白に等しい、といえるかもしれない。
QCでは品質とは、ブルボンがいつでも変わらないルマンドを売り続けているように「顧客の脳内にある製品のモデルに合致する結果を安定して出し続ける力」といえる。それに欠かせないPDCA・SDCAは時代遅れどころかブランドを支える最重要手法だ。
ISOや大学・病院が受ける認証評価は組織に対する敵対的刺激として働くことで脳PDCAモデル的に組織を破壊する要因であることが説明できる。こういった監査のたぐいは不適合を言いっぱなしにするのではなく、改善まで伴走するようにするのが良いのではないだろ…
脳の注意プロセスにドーパミン・ノルアドレナリンといった情動系物質が与える影響から、F1のレッドブル・レーシングに起きている状況を分析。2023年シースンの圧倒的成功が原因で組織のブラック化・失敗の属人化が起きているのでは?
脳内でPDCAに近いことが行われているという視点からQC7つ道具や新QC7つ道具といった品質管理のツールを分析したら、脳の機能の代用や補正のためのものだったというお話。
脳のはたらきをPDCAサイクルに見立てて、DCAステージそれぞれに潜む脳の「バグ」をまとめてみた。脳のPDCAサイクルはバグだらけだ。
脳のはたらきをPDCAと見立てて現場でPDCAが形骸化しやすい理由を脳の仕組みに求めたら、Planステージに相当する注意・モデル構築・計画のプロセスに潜む「バグ」だけですごくたくさんあった。
脳が外界に適応するために行う「注目→計画→行動選択→誤差評価→学習」のループはPDCAになっている。逆に、PDCAや品質管理(QC)を脳科学の観点から捉え直すことができるかもしれない。