読む毒の配布場所

品質管理(QC)について深く考えていたら脳科学や社会システム、社会問題なんかが侵食してきたのでそれを吐き出していきます。

「美しい死」の正体って〇〇の凍結なんじゃね? 〜なぜ、ネロとパトラッシュの死は美しいのか〜

美しい死という感覚、分かるよね?

私たちには間違いなく死に「美」を見出す感覚がある。

例えばフランダースの犬で描かれたネロとパトラッシュの最期は半世紀も前に放送されたものなのに、今だに名シーンとしてよく知られている。このシーンに悲しさだけではなく美しさを感じる人は多いはずだ。

この作品、舞台はベルギーだけれども、現地ではほとんど知られていないそうだ。ネロとパトラッシュの死の美しさが文化的に共有可能だとすれば現地へのフィードバックがあっても良さそうなのに、どうもそうではないらしい。

それどころか、アメリカで出版・実写映画化されているフランダースの犬は、ラストが改変されていて死亡シーンがない

これは、日本人には欧米人とは違う死への美的感覚があるからなのかな?

古事記見てみようぜ、一番古い日本語資料だからな

古事記は日本に残る最も古い歴史書として有名だ。その中巻、景行天皇記にはよく知られた倭建命(ヤマトタケル)の物語が記されている。

以下では武田祐吉による現代語訳「古事記  現代語譯 古事記」を引用しながら、美しい死、らしいものを紹介してみる。

熊曾建の死:名を贈り、残酷に死ぬ

クマソ征伐では、女装して宴に潜入したヲウス(ヤマトタケルのもとの名)は鼻の下を伸ばして油断したクマソタケル(兄)を宴席で殺し、逃げる弟を追ってその尻から剣をブッ込んだ。クマソタケル(弟)が「言いたいことがあるから剣を動かすな」と言うので凶暴なヲウスも一旦話を聞くことにしたらしい。

そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさつた強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終つて、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。

英雄の物語では、敗けた側が英雄を強者だと認めて誉める話や、英雄が神などから名を贈られるという話は珍しくない。けれどもそれらの組み合わせ、つまり敗者が英雄に名を贈るというのは相当珍しい。それに加えて、熟した瓜のように引き裂かれてしまうという劇的な最期。クマソタケル(弟)の死に様は美しい死の原型の1つかもしれない。

弟橘比売の死:予約的殉死

オトタチバナヒメの死は古事記を通じて印象的な死の1つだ。東征中に海を渡ろうとしたヤマトタケルは、渡の神が立てた波のせいで船が進まなくなってしまう。そこでオトタチバナヒメの取った行動がこうだ。

その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、「わたくしが御子に代つて海にはいりましよう。御子は命ぜられた任務をはたして御返事を申し上げ遊ばせ」と申して海におはいりになろうとする時に、スゲの疊八枚、皮の疊八枚、絹の疊八枚を波の上に敷いて、その上におおり遊ばされました。そこでその荒い波が自然に凪ないで、御船が進むことができました。そこでその妃のお歌いになつた歌は、

高い山の立つ相摸さがみの國の野原で、
燃え立つ火の、その火の中に立つて
わたくしをお尋ねになつたわが君。

人柱伝説では無理やりだったり、仕方なかったりという理由で人柱になるということが多くて、自分から人柱になるというのはレアケースだ。この純粋な自己犠牲も「美しい死」の1つといえるだろう。

このシーンは描写も美しい。

荒ぶる海という「動」と、3種の畳を八枚ずつ敷いてその上に降りるという「静」の対比。

海難という「水」と、歌に登場する「火」の対比。

歌の美しさを見るために、翻訳ではなく書き下しも書いておこう。

さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

焼津で火攻めに遭ったヤマトタケルが見せた気遣いへの、感謝を詠んだ歌だ。彼女は海神に殉じて死んだのではなく、愛に殉じた。実に美しい死だと思う。

倭建命の死:歌で装飾された気高い魂

その後、ヤマトタケルは伊吹山の神に対してイキったせいで大ダメージを負い、死んでしまう。

この死は、歌に彩られている。まず、死の直前にヤマトタケルは連続して4つの歌を残している。その1つ目の歌は特に有名だ。

やまとは 國のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとしうるはし

亡くなった後、墓を作って遺族が嘆きの歌を詠うと、ヤマトタケルは大きな白鳥になり大和へと飛び去っていく。それを追いながらさらに3つの歌が詠われた。この死には白鳥への(穢れた死体から純粋な美への)変身という美しさだけではなくて、死を挟んで4つずつの歌に飾られるという、はっきりした表現の美しさがある。

古事記ではヤマトタケルは「厠に入った兄を襲って手足を折り簀巻きにして投げ捨てる」という乱暴をしたことにドン引きした天皇に疎まれ、各地への征伐に送られた。東国征伐への出発のときには「オヤジはオレに死ねばいいと思ってるんだ」と嘆いてもいる。このような経緯は、後の源義経の悲劇性(判官びいき)にも通じていて、死の美しさを増しているようだ。

「美しい死」って結構プリミティブな感性なんじゃね?

強者からの名の継承と凄惨な最期、愛に殉じた人柱、歌で装飾された穢れなき白鳥――古事記に描かれた美しい死は、確かに美しいけれども私たちが期待する美しい死のテンプレートとは少し違うような気もする。

それはともかく、古事記というこれ以上遡ることができない古い記録に、死と美の結びつきが描かれていること自体は確かだ。

「美しい死」の感性というのは私たちが思っていたよりずっとプリミティブなものなのかも知れない。

平安貴族はどうだったよ?

古事記・万葉集(奈良時代)より後、平安末期以前には、どうやら「美しい死」というのはほとんど描かれていないらしい。

その理由の1つは仏教だろう。仏教の教えでは死んだ人は白鳥にはならないし、オトタチバナヒメがしたような自死は「出家」という社会的死でも代用できるようにった。

律令制という社会システムが行き渡って武力の競い合いがオワコンになったことも大きい。蝦夷征伐などは引き続きあったけれども、そのような殺生は仏教の価値観的に文学などには積極的に描きにくかったはずだ。

死を美しく描かなかった平安貴族にとって、死はただの恐怖だっただろう。その恐怖が生み出したのが「祟り」……なのかもしれない。

「祟り観」があったら死は美しく描けないわなあ

菅原道真の祟りで都がパニックになったように、平安貴族が祟りをメチャクチャ恐れたことは有名だ。源氏物語の六条御息所などは「生霊」として人を呪い殺すヤバい女として知られている。

死者(菅原道真)ばかりか生者(六条御息所)までもが祟るということは、平安貴族の「祟り観」を理解するヒントになりそうだ。六条御息所の呪いは言いかえれば情念の暴走だ。平安貴族は、強い情念は死んでも暴走し続けるんじゃないかと思っていたのではないかな。

平安貴族の間で浄土信仰が流行したのは、死後に自分の情念が暴走して怨霊に堕ちることを恐れたせいなのかもしれない(逆に、阿弥陀と縁を結べないと怨霊になるという恐れ方だったかもしれない)。でも、浄土は現世にはないし、阿弥陀如来は死後にしか救ってくれない。そうなると、死は浄土と祟り(穢れ)の分かれ道ということになる。死を美しく描く余裕なんて、あるわけがない。

平安貴族の祟り対策って浄土信仰以外にもあったかも?

そんなわけだから、平安文学では死のシーンは直接的には描かないのが普通だったようだ。例えば源氏物語では主人公の死を「雲隠」という「タイトルだけで内容がない巻」で表現している。

とはいえ「美しい死」の描写っぽいものが全然ないかというとそうでもなく、和歌の中にはこんなものもある。

手に結ぶ 水に宿れる月影の あるかなきかの 世にこそありけれ

これは古今和歌集の編者として知られる紀貫之の辞世と言われているものだ。死を前にして、一掬いの水に映る月影を人の生死の頼りなさに重ねる──平安中期に、すでに阿弥陀仏に縋るだけではない、無常観で耽美な情景を描いている。

夜もすがら 契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき

こちらは悲痛な美しさだ。一条天皇の后だった藤原定子は、政治的事情で帝から引き離され孤独な死を迎える。そんな彼女が縋ることができたのは、確かに交わした愛の絆しかなかった。それで、自分が死んだら帝の涙が色──いわゆる血涙というやつだ──に染まっていることを期待する、そんな歌だ。

この歌の恐ろしいところは、「色ぞゆかしき」と表現し、死んだ後に相手の愛を試そうとしている凄絶さだろう。私の情念は怨霊になる寸前だ、あなたが血涙を流さなかったその時は……この歌は過去イチ美しい脅迫状だった、と言ったら言い過ぎだろうか?

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする

平安末期の歌人、式子内親王のこの歌は百人一首に含まれるから多くの人が知っている。この歌が有名なのは、これが「死」に対する平安歌人の最終回答だからなのかもしれない。

「忍ぶ恋という情念」を無常観というフィルタに通すと、いずれ薄れていく、逆に抑制(忍)が外れ暴走する、という予想になる。だから、情念が最も美しい今のうちに、それを死によって凍結されることを願った……これは、そんな歌ということではないかな。

私はこの「死による凍結」という無常への抵抗が、不滅性を獲得した「美しい死」の正体なのではないかと思う。

最初の問いに戻れば、ネロとパトラッシュが生きて幸せを掴むことを望んだアメリカ人に対し、日本人はその美しい絆が死により凍結され永遠のものとなったことに感動したというのが私の解釈だ。

そして平家物語へ

古事記の時代には既にあった死を美しく飾るプリミティブな感覚は、仏教思想+身体的闘争がオワコン化したことで、平安時代には祟り・穢れという感覚に一旦は塗りつぶされた。

それとは別に、平安時代に徐々にできあがった無常観と、情念が怨霊となり果てることへの恐怖は、死による情念の凍結という新しい「美しい死」の形を生み出した。

その「死による凍結」をこれでもかとてんこ盛りにしたのが、平安時代の終焉を描いた傑作、平家物語だ。

平家物語に描かれた「美しい死」はちょっと語りだすと長くなりそうなので、別の機会に改めようと思う。

反知性の正体って、認知コストの払い渋りなんじゃね?

「あいつが悪い」「誰か1人が悪いわけではない」はどちらも反知性的だ!

このサブタイトルを見て不快に思っただろうか?その不快感こそ「その認知コストは高すぎる」という脳の悲鳴だ。

何かの「悪い結果」が起きる要因を解析してみると、結果に大きな影響を与えた根本原因は確かに存在していることが多い。だが、大抵はその原因は「誰か」ではなく仕組み・構造・方法にある。

なぜ、人間は構造的問題に背を向けて責任を個人に求めようとするのか、あるいは、個人に責任を負わせるのは間違っているという「道徳」を理由に「誰か1人が悪いわけではない」という責任の希釈・問題と向き合うことからの逃避をしやすいのかを考えてみよう。

脳内モデルの精密化とそのコストのバランスって微妙じゃね?

人間の脳の基本機能の1つは、外界をシミュレートする脳内モデル(こうすれば、こうなる)を用いて自分が外界に対して起こすアクションの結果(報酬)を予測し、その結果をフィードバックすることで脳内モデルの精密化を図ることだ。

脳には「予測可能であることを好み、不確実なことを嫌う」性質がある。

一方で、脳は人体最大のエネルギー消費器官の一つだ。だから、脳には「エネルギーを使わないことを好む」性質もある。

ここに、脳はエネルギーを節約する目的で(いちいち深く考えなくても外界を予測できるように)モデルを作ろうとしているのに、そのモデル構築にエネルギーが必要だ、というジレンマが起きる。

この、モデル構築のために脳が消費する資源が「認知コスト」だ。

脳は怠惰でズルをするものだって、実感あるよね?

脳は認知コストを節約するため、常にモデルの単純化を試みる。

QC(品質管理)において、パレート分析して結果への影響が大きい要因を洗い出したり、品質工学で感度分析をしたりすることは、脳の行っているモデルの単純化を外部化・手続き化したものといえるだろう。

だが、モデルを単純化するには、一旦はモデルをある程度高い解像度で捉える必要がある。QCではPDPC法によって要因が結果につながる流れを解析することなどがそれにあたる。

この「解析のためのコスト」が支払えない(それは怠惰であるのかもしれないし、能力不足ということもあるかもしれない)とき、脳は「分からない」=モデルの構築失敗という不安から逃れるために、仮初めの安心を得ようとズルをすることがある。

それが、安易な偽のモデルへの逃避だ。

それって原因じゃなくて現象じゃね?

2026年のWBC、侍ジャパンのベネズエラ戦敗北は多くの感情的な反応を引き起こした。

まず「戦犯」として叩かれたのが逆転の3ランを浴びた伊藤大海投手だ。SNSでは伊藤投手や、打者としては打率.000に終わった近藤健介選手への誹謗中傷が相次いだ。

これは「〇〇という1人が悪い」という雑な偽のモデルへの逃避、責任の属人化だ。

一方で選手に対する「戦犯」扱いが不適切だということは多くの人が認識している。事実、敗退後比較的すぐに誹謗中傷への批判も起きた。

この批判の多くは道徳的ではあるが、分析的ではない。なぜなら、ほとんどの批判は「伊藤投手が打たれたことも、近藤選手が打てなかったことも、敗北の原因ではなく、試合中に起きた現象、つまり結果だということ」に気付いていないからだ。

偽モデルから偽モデルへの逃避、いかにも起きそうじゃね?

伊藤投手や近藤選手を擁護する意見の多くは、責任をベンチに向けようとする。

だが、ベンチ、とりわけ監督を引き受けた井端氏に責任があると考えることは、本質的に「問題のありかは人間にあるという雑な偽のモデル」への逃避という点で、選手を「戦犯」に仕立てることと何も変わらない。

侍ジャパンのチーム編成では、井端監督自身が渡米しMLBの関係者と何度も会わなければならなかったという。井端氏としてはそのような時間は別のことに使いたかったのではないか。

本人の実際の心中は分からないが、1つはっきりしているのは、井端氏が渡米のための時間をムダだと考えたとしても、それを変えるための十分な権限は与えられていなかったということだ。

監督ですら責任を引き受けるに足る権限がなかったというのに戦犯探しをする――それは、できるはずのないことができなかったと言って非難する理不尽なのではないか。

偽モデルへの逃避の次は、思考停止が来る!

先にも触れたように「責任を1人に求めることは間違っている」ということは道徳的に広く認知されている。

道徳・社会規範により偽のモデルへの逃避を止められた脳は、それでも認知コストを支払いたくない。そこで選択するのが思考停止だ。

それも、道徳という「正論」を手にしたことでそれ以上の分析は必要ないという全能感(=コストを支払う必要がないという免罪符)を得るという巧妙な形でだ。

「個人への批判は萎縮を生むだけだ」って言うと、自分はバカとは違うって安心できるよね?

WBCの敗北を巡る意見の中で目立ったものの1つが、「個人への批判は選手を萎縮させるだけだから控えるべきだ」というものだ。

言っていること自体は正しい。だが、問題の構造的分析に進まずにこれを言って終わり、というのはいただけない。なぜなら、道徳を前面に押し出した批判は、その正義性が相手を黙らせることを目的化するからだ。

議論の停止を目的とした自己満足は有害としか言いようがない。このような意見を示すのであれば、どんなに拙くても問題の構造に向き合う姿勢を見せて欲しい。

「誰か1人が悪いのではない。みんなに原因があった」って、なんで人間に原因がある前提なんだよ?

個人への批判へのカウンターとしてよくみられる「みんなに原因があったのだから、個人への批判は間違っている」という意見はもっとタチが悪い。

なぜならこれは、責任を属人化させたまま、責任を分散してウヤムヤにする言葉だからだ。これが口にされた瞬間、あらゆる内部からの批判は、自分の責任からの逃避として捉えられるようになる。問題の構造分析は放棄され、「一人ひとりの反省」というキレイな言葉で収められてしまう。

これを口にする人の脳は、偽のモデルにしがみついたまま、思考の停止を試みているのだ。これが反知性的でなくて何だというのか。

「現象」と「原因」を区別するのが最低限の「認知コスト」なんじゃね?

組織のPDCAが失敗する主な原因の1つは、問題を引き起こしている要因の分析失敗だ。

そこでQCではモデル把握や要因解析のために様々のツールを用意している。PDPC法による要因から結果に至る経路の分析のほか、「なぜなぜ分析」のような原始的方法も有用だ。

このようなツールが必要となることは、逆説的に人間の脳は簡単に現象(結果)自体を原因(要因)と誤認することを意味している。

「原因」と思っているものが実は「現象」なのではないか、と疑うこと――それが、わたしたちが支払うべき最低限の認知コストなのではないだろうか。

で、WBCで負けた要因はどうなのよ?

正直、私は侍ジャパンが勝とうが負けようが割とどうでもいいし、この件は責任の属人化の例として手頃なものを取り上げただけなので要因解析に興味はない。

だが、これだけSNS上の反知性的行動をこき下ろしておいて何の分析もせずに終わらせるのも不誠実というものだろう。

NPBのスケジュールとWBCのスケジュールの関係性、世界のトレンドと日本の野球との基本戦略の違いなど、既に多くの構造的分析がなされているが、私は1つの要因として、強化委員会の目的が「勝利」ではなかった可能性に注目している。

野球は実力通りに確実に勝利することが難しいスポーツだ。しかも、侍ジャパンは前回2023年WBCの優勝の実績から、優勝以外は「失敗」というプレッシャーに晒されていた。このような状況で、「勝利できなくとも最大の利益が得られる戦略」をとることは極めて合理的だ。

強化委員会は(無意識的にかもしれないが)目的を勝利よりも「物語の提供」に置くことになったのではないか、というのが私の分析だ。招集に苦労しながらも過去最大の8名のMLB選手を集め「大谷翔平選手を始めとするMLBの最強日本選手が大活躍し、優勝する」という「」を演出する……それには実際のところ、完全に成功したといえるだろう。

まとめ:知ったらもう、戻れない

あなたは、これを読んでしまった。責任を個人に属人化させたり、一人ひとりが悪かったと連帯責任に逃げたりすることは、認知コストを払い渋る反知性だと知ってしまった。

もう取り返しがつかない。

だが、悲観することはない。認知コストは支払えば支払うほど、決済能力が上がっていく。反知性の海に沈まないよう、もがき続けるのが人間だ。

一緒にこの地獄を楽しもうぜヒャッホー!

「引き算の美学」って単なるミニマルな表現じゃねえよ、多分。

単純な日本アゲの目的で「引き算の美」って言うのは違うと思うんだわ

結論から言えば、引き算の美というのは「制約の中での自由」だ。この制約というのは自由と矛盾するものではない。余計な「説明」を省きテーマの解像度を極限まで引き上げるための情報の圧縮プロトコルだ。

以下にその構造を紐解いてみようと思う。

キツすぎる環境が、改造文化を生んだんじゃね?

日本の国土は山ばかりで住める場所が少なく、しかも小さな単位に分割されている。また、国土を取り巻く海洋は外界との交流コストを引き上げる境界線として機能してきた。

地理的に閉鎖的で、険しい地形により災害が頻発する――そうすると資源の移動が難しくなるからその場にあるもので何とかするしかない場面が多くなる。日本人に普遍的な「もったいない」という感覚には仏教の影響なども言われるが、構造的背景はそこにあるのだろう。

「その場にあるもので何とかする」といっても、その場に偶然あるものをそのまま使える場面は多くない。そこで必然的に発達したのが「転用・改良・改造」の文化だ。日本人が変態的改造を得意としてきたことは、今更説明の必要のないことだろう。

韻文+改造=フレームワークの共有

フレームワークの適用って、要は縛りだよね

この改造根性は、文学にも適用されたはずだ。

誰かが作った美しい文学表現を、改造して自分の表現に変える。これは一歩間違えば「パクリ」になってしまうけれども、模倣というのは何かを学ぶ時に避けて通れないことでもある。

日本人にとりわけ特徴的だったのは、これが単なる模倣ではなく改造=再利用の性格を帯びたことではないだろうか。

つまり、何となく元の表現に近いものを作り出すことを超えて元の表現のフレームワークを保存しながら再活用したわけだ。そして再利用が再利用を呼び、フレームワークは次第に新たなルールへと蒸留されていった。

詩を始めとする韻文が散文と異なるのは、リズムを刻むことと規則を持つことだ。

日本の詩、和歌や俳句。

万葉集の頃、既に和歌の形式は存在したが、それの原則から外れた詩も多く収録されていた。だが、平安時代には和歌の形式は強固になり、室町時代の連歌の流行を経てやがて俳句が成立する……このように、少なくとも日本では韻文は制約を増やす方向へと発展した歴史的事実がある。

これは、「規則を持った文」=韻文に、蒸留されたフレームワークを2重の規則として適用し続けた歴史だともいえるだろう。

でも、縛りってただの不自由なのかな?

長大な詩が和歌や俳句にコンパクト化していく過程では、単に文字数の制約が厳しくなっただけではなく、数多くの約束事が共有されるようになった。

例えば和歌の枕詞はただの飾りではない。枕詞の持つ機能には諸説あるが、私はその語の一般化した背景説明の代用(辞書化されたコンテキスト)なのではないかと見なしている。本来は詳しい説明が必要なところを枕詞の一語に圧縮することで説明を不要にし、短い和歌の中に別の表現を書き込む余地を増やす。一見すると文字数のムダに見える枕詞が、かえって表現の自由度を増やしているといえないだろうか。

これと同じようなことは俳句の季語にもいえる。

枕詞、本歌取り、季語……日本の韻文はこういった明示的な技巧ばかりでなくフレームワーク(世界観)の中での理解を強制することで余計な背景の説明を省き、テーマの解像度を最大化することに成功した。

同時にこの共有されたフレームワークは、書かなかったこと=余白*1から受け手がはたらかせる想像力のガイドラインとして機能し、詠み手は安心して余白を残すことができる。

これが引き算の美の正体といえるだろう。

他の引き算の美と比較してみる

引き算の美というのは、様式(ルール)と不可分だ。

例えば茶室。

茶室や茶道には、はっきりとしたテンプレートがある。だが、その表現の幅は無限大だ。様式をある枠内に固定することが、枠内での表現の解像度を最大化している好例といえるだろう。

例えば日本画。

日本画は西洋画のように一点透視などのパースが描かれることは少なく平面的だ。平面に描く絵なのだから平面なのは当たり前だろうという堂々とした割り切りに見える。さらに、雲や霞、縁起物、八景、大観視といった約束事が共有され、一見すると決まり事だらけだ。

それと引き換えに発達した技法の一つが異時同図法*2だ。同じ画面に異なった時間に起きた物事を同時に描き込む――これは、3次元を2次元に圧縮し、さらにテーマと無関係のことを描かず余白を大きくとる、そのような情報の圧縮と削減が表現できる次元――時系列――を増やしているといえる。これも詩歌と同型の「圧縮による自由の獲得」の一例だ。

また例えば華道。

「天地人」というフレームワークが共有されていなければ、どんなに美しく活けられた花も、ただの花束と変わりがない。

このように日本人は、約束事の共有によって背景を整理し、テーマの解像度を引き上げること――引き算の美を多用してきたのだ。

アルティメット・コンテキストな日本文化

約束事の共有って、どうやって成立したかな?

とりわけ文学において約束事の共有に必要なのは、多くの人が共通の古典を学んでいることだ。

そのために重要な文字と紙の普及基盤は、私は奈良時代には芽吹いていた可能性が高いと考えている。仏教における納経と、律令制の実施のためには、文字と紙が不可欠だった。国分寺は国ごとに建立され、日本の荘園は細かく分断されていたから、支配層に連なる「文字を介する人」の比率は人口に対して多くなり、紙の生産も各地で始まったはずだ。

これに加え、各地の寺社や琵琶法師のような存在は、様々の説話や平家物語といった文学のテンプレートを各地の人々にインストールして回った。都から各地に配流された流刑者や、平家の落人なども、その役割の一端を担ったと想像される。

室町時代に町人が力をつける過程でテンプレートは階級を問わず共有されはじめ、江戸時代、紙が庶民に普及したことで世俗化しながら一気に拡がった。

その過程と、俳句という究極の引き算の美が成立した時期が一致するのは決して偶然ではないはずだ。

いやそれ本当に日本だけなのか?このブログ自体が日本アゲなんじゃね?

もちろん、制約=フレームワークの共有による文学は日本以外にもある。

たとえば以前に日本とイランの共通点が多いことを書いたが、ペルシア文学にもルーバーイーという古代中国の絶句に似た定型詩がある。だが、この偉大な文学はイスラム教という宗教の制約から日本とは異なる変態的進化を遂げた。1つの表現が表裏様々の多様な意味を持ち、宗教的にOKともNGとも読める曖昧さ……これはこれで興味深いがここではそういうものもある、という程度の話にとどめておこう。

ルーバーイーとの比較で示した五言・七言絶句や、西欧の定型詩ソネットなどは、隆盛後に非主流化して口語の詩に置き換わった。これは、大陸的文化において人の交流が活発になり階級が解体されていったことで、フレームワークの共有が困難になって「誰にも伝わる説明」が必要になったのだと解釈できる。

日本の文学は、このような宗教の制約や、文化的背景の共有が難しくなるような事情の影響が「たまたま」相対的に少なかった*3ために、特異な進化を遂げたのだろう。

さらに言えば、和歌・俳句のような「圧縮された表現」は、地理的な(それに付随して時間的な)分断を超えて共有・記憶するのに適している。山河で細かく分断された日本の国土が、このような「堅牢な」情報表現の適合性を高めたという側面もあるかもしれない。

珍しくまともなまとめ

日本人の引き算の美とは、単にミニマルな表現=説明不足とは違う。

俳句、和歌、華道、茶室……これらに課せられた制約は、テンプレートの共有による説明の不要化がもたらした「結果」とさえいえるかもしれない。「アルティメット・コンテキスト*4とでもいうべき背景の共有による言語圧縮が可能にした、テーマに集中した高解像度の表現」、さらには日本画に(さらに漫画・アニメにも)見られる「平面化という空間圧縮と定型表現の共有による、時間表現の獲得」。それらが引き算の美だ。

プログラミングにおいてアセンブリ言語で開発を行えばできることが多いように思うかもしれないが、実際には「全部書かないといけない」ので複雑な機能を実現することは難しい。ライブラリが充実した現代的なプログラミング言語でこそ創造的なコーディングができることと、よく似ている。

「全部書かないと伝わらない」ために形式の統一が進んでいなかった万葉の時代から、古今和歌集・百人一首……そして奥の細道へ。

そうした「制約の追加」が、日本の文芸に小宇宙とさえ評価されることがある自由を与えてきた。だから「17文字でも伝わる」――そう言っては言いすぎだろうか?

なお、この文章自体が引き算の美とは程遠い贅肉まみれだという批判は甘んじて受け入れたい。

*1:この論説の主旨から外れるので詳しくは述べないが、余白や省略には肉体などの「汚いもの」を表現から排除するという側面もある。

*2:これは日本画に固有の技法ではなく西洋画にも見られるが、特に日本画で多用されている。

*3:日本でも現代では口語詩も文学的に重要だ。これは、文化的背景の共有がやや弱まったことを示唆しているかもしれない。

*4:日本語は『ハイコンテキスト』だと言われるのを引用して、「究極の文脈共有」という意味合いの造語をしてみた……勢いで書いたのだけれども、これもフレームワークの流用表現の一例になっている。

歓迎会って本当にムダだと思う?〜それは高コスパの通過儀礼かもよ〜

新年度、それは歓迎会シーズンでもある

始めに断っておくが、私は飲み会が(より正確には酒が)大好きだ。ゆえに、職場に新人やって来ればこれ幸いと歓迎会を企画するのだが……ご本人が飲めない・飲まない、と聞くと大変残念な気持ちになってしまう。とりあえず自分が飲みたいから歓迎会は必ず強行されるのだが。

さて、このような半ば強制された飲み会、昨今の若者には好まれないという言説もあるようだ。もし、配属された新人さんから歓迎会をお断りされたら……私の場合は主に歓迎にかこつけて飲みたいだけなので「残念」が先行するのだが、怒りや不快感を感じる人がいることも大いに理解できる。

このような宴会、不必要だとか、嫌いだとか言われることもあるけれども、その「機能」を考えてみるとなかなか侮れないものがある。以下の考察は、酒大好き人間の宴会正当化ではない。ないったらない。

日本って関係性重視=性善説文化なんじゃね?

飲み会について、日本社会の構造から読み解いてみよう。

日本とイランの類似性について書いたときにも触れているが、日本の文化というのは契約よりも関係性を重視しやすい特徴を持っているようだ。

これは日本では契約よりも関係性の方が優越しているという意味ではない。契約というのは守られるために存在するもので、契約を守らず補償にも応じないとすれば世界のどこでもただの無法者だろう。

この「関係性重視」というのは契約のあり方の問題だ。

性善説って、裏切り者は許さねえってことだ

契約というのはいつでも穴があるものだ。

契約を重視する社会では、契約の穴は堂々と利用される。それを防ぐために契約の精度を上げ、同時に穴を見つけ出して相手を出し抜く……そのため、契約を結ぶというのは一種の戦いといえる。お互いの主張をぶつけ合う契約前の段階では相手との関係性は特に必要なく、契約の成立により相手との関係性が成立するとすらいえる。

相手は契約に穴があれば利用してくる存在という仮定、これはいわゆる性悪説だ。元々穴があれば利用されると考えているわけだから、契約の穴を突かれることは単なる「負け」と認識される。

一方、関係性を重視する社会では契約の穴を利用することは極めて危険な行為となる。それは相手への貸しとなり、程度が過ぎれば相手との関係性が断絶して敵になってしまう。「不義理なこと」ができないよう、お互いの関係構築は契約締結より前に開始されているからだ。

相手は「契約に穴があっても利用しない存在」という仮定、こちらは性善説といえるだろう。義理があるはずの相手がその穴を突く……これは契約以前の社会的合意を覆す「裏切り」なので、強い怒りを引き起こす。性善説というのは決してお人好しという意味ではなく、義理を軽んじ筋を通さない相手に対する厳しい制裁と表裏一体の指向性なのだ。

建前って、裏切りたくない気持ちの表れじゃね?

本音と建前の使い分けを、日本人の悪癖と考えている人は多いようだ。だが、建前というのは悪いものなのだろうか?

契約にも色々あるが、口約束も契約の一つだ。例えばこんなものを考えてみよう。

A「今度飲みに行きましょう」 B「はい、機会があれば、是非」

私たちはこの契約が果たされなくても大丈夫だと知っている。それは暗黙の合意の下に設けられた「機会があれば」という「利用して良い穴」があるからだ。

この会話は本音建前の組み合わせで以下のように4通りの解釈ができる。

① AはBと飲みに行く関係性があると本音で言っている。BもまたAと飲みに行きたいが、Aの誘いが建前である可能性に配慮している。あるいは、BはAの誘いを本気にすれば自分が期待する関係性が裏切られてしまう可能性があるので、それへの防御を図っている。

② AはBと飲みに行く関係性があると本音で言っている。Bの本音はAとはそのような関係ではないというものだが、Aが本音で期待するかもしれない関係性を裏切らないように建前で合意している。

③ Aの本音はBと飲みに行く関係性はないというものだが、Bもまたそう考えているとは限らないので建前として飲みに誘う。BはAと飲みに行きたいが、Aの誘いが建前である可能性に配慮している。あるいは、BはAの誘いを本気にすれば自分が期待する関係性が裏切られてしまう可能性があるので、それへの防御を図っている。

④ Aの本音はBと飲みに行く関係性はないというものだが、Bもまたそう考えているとは限らないので建前として飲みに誘う。Bの本音もまたAと飲みに行くほどの関係ではないというものだが、Aが本音で誘っている可能性に配慮して建前で合意している。

こうしてみると、建前には「一緒に飲みに行ける仲」という関係性への期待(これもまた社会的契約の一つだろう)を互いに裏切らずに済むようにする機能があることが分かる。

関係性重視の社会の根底には「信頼には信頼で応える」というメタ契約があり、その契約が裏切られることを防ぐために発達したのが建前なのではないだろうか。

性善説の脳内モデル

関係性重視の社会には「信頼には信頼で応える」というメタ契約があると述べたが、これはこのような社会に所属している人々が共有する脳内モデルと言い換えることができる。

つまり脳内にある「人間のシミュレータ」に「相手への信頼」というインプットをすれば「自分への信頼」というアウトプットが返ってくるというわけだ。そして、相手にも自分と似たような脳内モデルがある、と仮定することもまた「相手への信頼」の一つだ。この再帰により、信頼への返報性という脳内モデルは組織や社会全体に共有される。

この再帰によるモデルの共有は次の2つの影響をもたらす。

①裏切り者の徹底した排除

人間は人から信頼を向けられる、つまり「モデルにより予測可能な存在である」と認識されていると感じると、オキシトシンレベルが上昇する。

人に信頼を向けられオキシトシンレベルが上がると、「相手の信頼に応える」という社会的報酬の価値が高くなり、相手の信頼に応えるための行動を選択しやすくなる。この仕組みが「信頼には信頼で応えるべき」という価値観の源泉だ。

さらにオキシトシンの作用は同時に、社会的報酬の実現を妨げる存在への注意を強化し、それを排除する行動を選択しやすくさせる側面も持つ。

その結果、集団は結束し、集団外の存在には敵対的になる。これが内集団バイアスだ。

誰もが信頼の返報性を信じている集団で信頼を裏切ることは、相手だけではなく集団への裏切りになる。集団が共有する人間シミュレータの応答とは異なる応答をしてしまう……それはもはや集団の一員とは認められないことを意味する。

これに内集団バイアスが加わることで、信頼を裏切った個人はたちまち集団外部の敵対的個体として認識されることになるのだ。

②脳内モデルの更新不能

脳内に存在する外界予測のためのモデルは、報酬予測誤差を利用したフィードバック(このブログではこれを脳PDCAモデルと呼んでいる)により更新され、次第に精密になっていく性質がある。

だが、「信頼には信頼が返ってくる」というモデルは再帰により集団に共有されるため、自分のモデルだけを更新することができない。そのため、このモデルは集団が解体されたり、自分が集団から離れたりといったことが起きない限り永久に固定されてしまう。

信頼の返報性は、自分がその集団に属し続ける限り逃れることができない呪いのようなものといってよいだろう。

いや常に相手の信頼に応えるって無理でしょ?

相手からの信頼には常に応えよ、それは当然のことを言っているように聞こえるかもしれないが、これは不可能だ。飲みへの誘いの例から分かるように、そもそも私たちは相手から信頼されているかどうかさえ、正確に知ることができないのだから。

「信頼には信頼で応える」というのは、実は「相手の信頼は正確に把握できる」という不可能な前提の上に立っているわけだ。

建前を利用することで、この矛盾は回避することができる。

相手の信頼が不確定な状況で、信頼があるものと仮定して建前を置いておく。それによって、相手からの信頼はあってもなくても大丈夫なようにする。

これが先に示した飲みに誘う短い会話の、より精密かつ端的な説明だ。

じゃあ、本音はどこへ行く?

集団は建前によって安定するが、誰もが本音を隠し続け、建前だけで繋がった集団は「内集団」、平たく言えば「仲間」といえるだろうか?

そこで集団は「」を利用する。

例えば職場は建前が支配する場で、そこで本音を晒すことは集団の結束を乱す裏切り行為とみなされる。それに対し、アンオフィシャルな場では本音を出しても良い。そして、アンオフィシャルな場で晒された本音はオフィシャルな場には持ち込まない、という「建前」にすれば、安全に本音を共有できる。

そのようなアンオフィシャルな場として利用されるのは、喫煙室、ファミレス、喫茶店、そして居酒屋といった場だ。

外部の人間が集団に入ったり、交渉したりする場合、このようなアンオフィシャルの場で本音を晒すことは、その人を内集団の一員として受け入れる通過儀礼となるのだ。

歓迎会って、コスパ最高の内集団加入儀式じゃね?

歓迎会への参加は任意であるべきだし、参加を強要するような組織は不健全だ。

だが、関係性が重視され、本音と建前を使い分けるこの社会において、歓迎会に参加することは心理的に自分が組織の一員として受け入れられるための最も簡単な方法だということはおそらく間違いない。

歓迎会の多くは無礼講*1とされ、アルコールは建前の建付けを緩めて本音を晒させる。飲み会はそれを職場の人に安全に受け取ってもらうための機能を持っているのだ。

歓迎会、参加を断ってしまったあなたは、内集団への加入コストを過剰に見積もっているのかもしれない……まだ間に合うなら「参加してみる」という選択肢を再考してみても良いかもしれませんよ?

*1:ちなみに無礼講を無礼+講と解釈して無礼をはたらいても良いと勘違いしてはいけない。これは無+礼講のことで、神に杯を捧げる礼講という儀式を省く、つまり形式張らない気楽な宴会という意味だ。

日本とイラン、共通点あり過ぎじゃね?〜「中東の京都」を理解する〜

2026年3月のイラン情勢

2月下旬のアメリカ・イスラエル共同攻撃で最高指導者ハメネイ師が死亡、後継として指名されたモジュタバ師も負傷(一時死亡説も流れた)したりと、指導部が極めて不安定な状態。

海上の要衝ホルムズ海峡は通行が困難になり、原油価格の急騰と世界的なインフレが進行。イラン国内は空爆によるインフラ破壊とハイパーインフレ、さらに1月に起きた大規模デモへの弾圧の傷跡が重なり、国家存立そのものが「体制崩壊か、さらなる強硬化か」の瀬戸際……そんな緊迫した状況となっている。

日本にも少なくない影響が出始めているこの情勢だが、さて、どの程度の人がイランという国について知っているだろうか?

*注意* 私は現在のイラン政府には数多くの問題があることを認識しているし、とりわけ革命防衛隊は滅びるのが世界とイラン国民のために良いと考えている。以下はイランが親日だとか正義だとかそういう意味の文章ではない。

共通点1:一貫した独自の文化・独自の言語

文化の一貫性

日本人の多くに共通している感覚として、古来から独自の文化を保持し続けているという誇り、悪く言えば文化の断絶を経験した「文化が浅い国」に対する優越感があるだろう。

イランもまた「ペルシア」として日本以上に長い独自の文化を維持してきた国だ。飛鳥・奈良時代には既にペルシア系と見られる人々が日本に到来していたと考えられているが、彼らは滅亡したササン朝ペルシアの文化を色濃く継承していた。そのササン朝は現在のイラン・イラクを中心にエジプトからパキスタンに至るまでの地域に広がる大帝国で、まさに古代イランの最盛期だったのだ。

ササン朝の遺民が飛鳥の大和人に出会った場面の雑なAI生成画像

イスラム勢力によるササン朝の征服後も、イランはモンゴルやトルコ系民族の支配を受けることになるが、一貫してペルシア文化・文学とペルシア語は保持され、征服民は「ペルシア化」されてしまった。この文化の一貫性こそが日本とイランとの最も強固な共通点だ。

独自の文化を誇るペルシア人には周囲のアラブ人を「文化がない」と意識的・無意識的に見下す人もいるとされ、周囲から鼻持ちならない連中と思われている「中東の京都人」なのだ。

言語と文字の独自性=高度な独自文明

日本語、ペルシア語はそれぞれほぼその国固有の言語(正確にはペルシア語はアフガニスタン・タジキスタンでもかなり広く使われているが)だ。日本が漢字を輸入しつつ改造して和文を作り上げたのに対し、ペルシア文字はアラビア文字を改造したもの、という点もよく似ている。

さらに、ペルシア語と日本語は、欧米の主要語以外で、大学教育を自国語で完結させられる数少ない言語の一つだ。自国語で大学教育ができる国でも「教科書は英語」ということが多い中、日本語・ペルシア語で大学教科書が出版されていることは翻訳に頼らず自分の文化で世界を定義できる証、つまり科学的・文化的な自立の表れといえるだろう。

「イランのような発展途上国が無理して核開発をしている」などという認識は完全な的外れなのだ。

共通点2:美しくも険しい国土、そして災害

イランの自然のイメージ、ラクダに土壁の家なんて今時たぶんないけどね

イランの国土は日本の4倍も広いが、国土に占める可住地の割合は日本と同じく3割程度しかない。イランはざっくり言えば険しい山と海に囲まれた砂漠の国で、人が住む土地は山と砂漠の間のごく狭い場所に点在している。山と海に挟まれた狭い地域に人口が集中する日本と、人口の分散のしかたが共通している。

また、高山・砂漠に囲まれたイランは空中の要塞と表現されることもあるほど他国との行き来が大変な国だ。海に囲まれ他国と繋がっていない日本と、その点でも類似している。

もう一つの特徴が自然災害――特に地震だ。イランの南西部国境地帯はアラビアプレートとユーラシアプレートの境界にあたり、日本と同じく地震国なのだ。

日本では山がちな地形が地震、台風、豪雪といった災害の被害を起きやすくしている。イランでも険しい地形が地震の被害を大きくし、さらに乾燥した気候は常に干ばつと砂嵐の脅威をもたらしてきた。ペルシア語文学・日本文学がともに自然の美しさを連綿と表現し続けて来たのは、第一に自然の豊かな恵みを受け取る一方で災害によりその恐ろしさも身に沁みていること、第二に災害によるスクラップアンドビルドが自然を克服するのではなく自然と共生する生き方につながったことという、共通した要因によるものだろう。

また、このように、地理的に(ひいては文化的に)閉鎖的で、人が住むのに適さない土地が多く、災害が多い、という環境は、限られたリソースを最大限に活用するための工夫を生むだろう。両国でガラパゴス的に技術が発展したのは、ごく自然なことだったといえる。

共通点3:契約より関係性

義理で駆動する社会

両国民は共通して、紙の上の契約よりも、長い時間をかけて積み上げられる「貸し借り(義理)」を重んじる精神構造を持っている。

欧米のように契約書が社会の基盤となる文化では、約束は文書化され、履行されなければ裁判で争われる。しかし、日本やイランのような関係重視の文明では、約束とは本来、人と人のあいだに蓄積される信頼の総量であり、文書よりも「この人は過去にどう振る舞ったか」が重視される。

日本で冠婚葬祭の香典や長年の取引関係が義理として人間関係を規定するように、イランでも部族社会の伝統として「誰が誰を助けたか」が政治や商取引の基盤となる。

そのため、両国ではしばしば「合理性よりも筋を通す」行動が選ばれる。外から見ると非合理に見える決断が、当事者にとっては共同体の秩序を守るための必然なのだ。この「義理のリアリズム」こそが古代から続く共同体社会の生存戦略で、イランと日本が共有する深層の価値観といえる。

本音と建前の使い分け

義理を立て、筋を通す――それは、関係性を守るための努力といえる。そのためのツールとして日本人・ペルシア人がともに発達させたのが「建前」だ。

イランには「タアーロフ」という文化がある。これは高度な社交辞令や謙遜だ。たとえば、イランのチャイハネ(カフェのようなもので、これ自体が日本のファミレスや居酒屋に相当する文化的共通点の1つ)では会計を巡ってこんな一幕がよく見られるという(怪しい京都弁に超訳してみた)。

  • A:請求書持ってきてくれやす、うちが全部払いますさかい。
  • B:そんな、あかんて!うちが出させてもらいますえ。あんたはん、前に払うてもろたやろ?
  • A:前は前、今日は今日やさかい。うちのお父はんの命にかけて、あんたはんには払わせまへんえ。
  • B:お命だなんて、そんな大げさなことおっしゃらんといて。ええ加減にしなはれや。うちの方が稼いどるさかい、うちが払うのが筋どすえ。
  • A:筋とか関係おへん!ここはうちの地元みたいなもんやさかい。タアーロフ抜きで、うちに恥かかせんといてえな。
  • B:(店員に名刺を押し付ける)もう遅いで。うちのツケにしてもらいましたさかいに〜

イランのチャイハネでのタアーロフのイメージ

完全に、日本のファミレスや居酒屋でよく見る光景と同じである。名古屋や岐阜の喫茶店でオバチャンたちが繰り広げる光景はさらにこれに近い。

共通点4:魔改造文化

日本人は海外から来た文物を魔改造*1してしまうことが得意だと自負している。この点でもイランは日本に負けず劣らずだ。

宗教の魔改造

飛鳥時代に日本に渡来した仏教を、日本人は徹底的に魔改造してしまった。神仏習合を発明し、念仏を発明し、他力本願を発明し……さらに檀家制度という社会システムへの変質までもが行われた。

イランの国教はシーア派イスラム教だ。これはササン朝がイスラム勢力に征服されたことによる教化の結果であるが、ペルシア人はただ教化を受け入れたりはしなかった。当時イスラム教からは既にシーア派が分裂していたが、ペルシア人は異端として弾圧されていたシーア派を受け継いだのだ。そして乱暴に言えばそれをペルシア風に魔改造したものが今のシーア派だといえる。*2

機械の魔改造

かつての航空自衛隊の主力戦闘機F-104Jは、魔改造機体だ。原型となったF-104Gの特徴といえば、核攻撃能力を持ったマルチロール機、そして低信頼性の「未亡人製造機」……しかし、日本では対地攻撃能力を徹底的に削除した上で空戦特化の火器管制装置に換装して超高速迎撃機として完成させ、国内製の高品質部品と航空自衛隊の徹底した整備により世界一低い事故率を達成してしまった。さらに、退役後は無人化改修され、標的機として徹底的にしゃぶりつくした。

空自のF-104J(左)とイラン空軍のF-14(右)。イランはF-14を現役で運用する最後の国で、その機体はもちろん魔改造されている。

イランにおいて似た状況にあるのが「プジョー車」だ。イランには元々多くのプジョー405が走っていたが、経済制裁により部品が入手できなくなると1960年代の旧車「ペイカン」のシャシ(驚くことに405がFFなのに対し、ペイカンはFRだ)に強引に405のボディを架装した車を生産するようになった。さらにフランスにはないピックアップモデルや、それらをベースに部品の国産化率を高めた国民車「サマンド」へと派生し原型を留めなくなっている。サマンドのエンジンは独自モデルとして国産化*3され、天然ガスでも走れるようさらなる魔改造が行われている。

イランの街角に佇む405とサマンド

共通点5:平等な制度、実態は差別(悪いところも共通!)

ここまで日本とイランの共通点を肯定的に見てきたが、悪いところだってよく似ている。

関係性を重視する文化では、身内の結束を守るために一度「外」と定義した属性に対する厳しい階層化が行われやすい。日本においては江戸幕府が統治システムの一部として賎民階級を利用したことが良く知られている。

現代日本にもこの構造は生きており、本音を建前で取り繕っている分、江戸時代より質が悪くなっている。外国人の技能実習制度はその代表例だ。外国人に技術を教えるという建前のもとで、本音としての搾取が横行し、さらに彼らに聞こえるように「日本人ファースト」という無神経な主張まで行われる……私にも、あなたにも、その「恥部」に加担しやすい傾向が確かにあるのだ。

イランにもこれに似ていて、しかもイスラムの教義とは無関係な事例がある。その1つがクルド人差別だ。

イランは多民族国家として民族による差別を明確に禁止している。クルドへの差別は問題とされており、様々な対策が取られてきた。だが、それらは建前だ。実態として、クルド人は国境地域に追いやられ、その一部は密輸品を運ぶ危険な低賃金労働に従事させられている。そこでは制度の上では平等に扱いながら、制度外の社会システムにより差別的扱いが固定化されている。これは日本によくある差別構造と類似した形態といえるだろう。

まとめ?

遠い国、イラン。だがその実態は実は日本とよく似た「中東の京都」だ。

宗教や気候では違いが大きい両国だが、このブログでまとめたように意外に共通点が多い。これは、欧米諸国とはやや違う価値観同士、相互理解しやすいことを意味しているだろう。

この魅力的な国に、日本人はもっと興味を持った方がよいと思う。

80年前、石油禁輸という経済制裁をきっかけにアメリカとガチンコのケンカをした日本は現在のイランの先達だ。この国を撃つ砲火に加担することなく「知的な遠くの隣人」の再起を信じ、共に歩む準備をすることこそが、日本の果たせる責任ある役割ではないか。そうすることは、かつて技術と誇りだけで世界に挑んだ、私たち自身のルーツを再確認する旅でもあるのだから。

*1:もちろん「原型を留めないまでに改造する」という意味で使っている。元来は美少女フィギュアの下着の中を精密に造形する改造を指す言葉だったのだが……なぜか今では肯定的な意味に転化しており興味深い。

*2:その意味で、イランは宗教国家ではあっても、タリバーン政権下のアフガニスタンのような野蛮な原理主義国とは全然違う。

*3:なお、厳しい経済制裁を受けながらも基幹部品から自動車を内製できる国はロシアとイランだけだ。ソ連の遺産を引き継いでいるロシアと異なり、ニコイチの車から一応は独自の設計の車を作り上げたイランは変態的――もちろん褒めている――といえるだろう。

災害にかこつけて日本人アゲをするのって不謹慎なんじゃね?〜助け合いと排外を引き起こすオキシトシン〜

3月に防災を考える

「防災月間」といえば関東大震災があった9月だが、東日本大震災と空襲+季節風による複合災害である東京大空襲があった3月もまた、防災体制を点検する月としてふさわしいだろう。

さて、具体的に名指しすることは避けるが、先日こんな趣旨のブログに接する機会があった。曰く

  • 東日本大震災で人々は整然と並んでいた
  • それは日本社会の秩序や文化によるものだ
  • 近年は多文化社会化していて秩序は崩れている
  • だから今後は自己防衛が必要

と言いたいらしい。

これまでの災害で、外国人は問題を起こしてきたの?

このブログ主の主張する通り、今の日本社会は既に多くの外国人を抱えている。したがって、主張が正しいなら大きな災害が起きるたびに外国人が日本人の被災者を脅かす事態が起きているはずだ。

たとえば東日本大震災では被災者の人数が膨大なので、その中には相当数の外国人がいたはずだ。しかし、被災時に外国人の略奪を受けた、外国人に襲撃された、という報道があっただろうか?外国人がその場の日本人を皆殺しにしていれば死人に口無し……馬鹿馬鹿しい。そんな恐ろしいことが起きて、隠し通せるわけがない。

外国人に被災時に略奪・襲撃をしやすい性質があるとすれば、被災後の国際空港は極めて危険な場所になるはずだ。だが、実際には東日本大震災の直後、成田空港・仙台空港での略奪や暴動の記録はない。さらにその後に起きた外国人の出国ラッシュにおいても、相当な混乱状態だったにも関わらず暴動に類似した事態があったとは知られていない。

日本人と文化が違う外国人は、本当に被災時に危険な存在なのだろうか?

被災時に助け合うのって、当たり前に決まってるだろうがよ?

実を言えば、地震などの大規模災害直後に、突然暴力的になって略奪に走る人というのは極めて珍しいことが知られている。

われわれが突然の自然災害のような急速な脅威に直面したとき、「何をすると、どうなる」という脳内の予測モデルは全く機能しなくなってしまう。このような場合に生存可能性を高くするため、われわれの行動選択プロセスには緊急時に行動コストが急速に小さくなる「原始チャンク」とでもいうべきものが備わっている。

すなわち、逃げる、戦う、停止する(隠れる)、仲間を呼ぶ、といったものだ。

これらは捕食から逃れるために発達した選択肢だ。つまり、捕食者からの逃走、反撃による撃退、息をひそめることによる回避、そして、特に幼い個体にとって重要なのが親に庇護を求めること(アタッチメント)である。

このアタッチメントを拾い上げるために、脳は「助けて!」とパニックを起こし叫ぶ人を見れば「助けたい」と思うようにプログラムされている。その鍵を握る情動系物質がオキシトシンだ。赤ちゃんの泣き声のような刺激に対してオキシトシンレベルが上昇すると、脳の注意プロセスにおける社会的価値の重みが爆増するようになっている。

言い換えれば、オキシトシンは「泣いている赤ちゃん→笑っている赤ちゃん」という報酬の価値を引き上げる作用を持っている。これこそが、われわれが困っている人を見れば助けたくなるメカニズムだ。要するに、人間は本質的に親切な生き物だといえる。

被災時にパニックを起こした人を援助する行動は、新たな集団形成の核となる。助け助けられる関係性を持った集まりは、災害という外敵に協力して対処するための新たな集団として再定義される。そのため、被災直後の人々は互いに助け合い、秩序を持って行動することが普通なのだ。たとえ敵同士でもはたらくこのメカニズムは呉越同舟の故事の昔から知られてきた。

でも、なんか外国人、怖いじゃん?

事実、海外での災害の報道では暴動や略奪が起きたという話をよく耳にする。日本では起きないのだからやっぱり日本人は……と思うかもしれないが、そんなことはない。関東大震災で発生した「不逞鮮人」への襲撃のことを、都合よく忘れるのはみっともないダブルスタンダードではないか?

このような暴動が起きる要因は複合的だが、大きな理由の1つもまた、オキシトシンの作用だ。

オキシトシンの作用の源流は母が子を守る行動だ。だが、多くの人は子連れの野生動物は極めて危険な存在であることを知っている。人間の母親においても産後しばらく外部に対し敵対的行動を取りやすい時期(いわゆるガルガル期)があるといわれる。

これはオキシトシンの極めて危険な副作用、内集団バイアスだ。

集団に囲い込んだ子ども=弱者を守るには、前提として集団を外部とは別の集まりとして定義する必要がある。そして、集団に属する人を守るということは、つまり、他の集団より自分の属する集団が優位であると認識することが前提だ。その結果、集団の結束が強くなるほど、集団は排外的な性質を帯びるようになる。

そんな集団は、集団外の存在に対し常に疑心暗鬼だ。これが、災害時にデマが流れやすくなる原因といえる。関東大震災において、集団外にあって集団とは異なった特徴を持つ存在に目をつけ、「朝鮮人が井戸に毒を入れている」という話を信じてしまった日本人が大勢いたのはそのためだ。

現代でも大規模災害が起きるたびに「外国人が略奪を行う」といったデマは繰り返し流されている。 これは、被災地自体から発生することもあれば、外野がSNSで発信することもある。被災の報道に触れた人は、その凄惨な状況から擬似的にアタッチメントを受け取ったと感じ(=同情し、絆を感じ)、オキシトシンレベルが高まるだろう。こうして直接被災していない人が被災者と類似の反応を見せ、流言飛語につながることもあるかもしれない。

じゃあ、なんで日本では暴動にならないの?

被災直後は人々が協力し合うことで略奪・暴動は起こりにくい*1。だが、その後は内集団バイアスの作用は集団を盗賊的にしたり自警団的にしたりと複雑だ。略奪・暴動が起きるかどうか、それは別のメカニズムにより説明した方が良いだろう。

日本で略奪や暴動が起きることは珍しくなったが、近年よく似た現象は起きたことがある。コロナ禍におけるトイレットペーパー騒動がそれだ。 このような騒動が起きたことは、日本人も条件が揃えば物資の独り占め・奪い合いを行うことを示している。

コロナ禍においてトイレットペーパーが不足するというデマが流れ、買い占めが起きたとき、直ちに「トイレットペーパーのほとんどは国内で生産されており、在庫は十分にある」という報道が繰り返し行われた。多くの人はそれを嘘だとは思わなかったのではないか。だが、実際には流通網の容量を超える勢いで買い溜めが起き、店頭からトイレットペーパーは消えた。

このように、家に大量にトイレットペーパーを蓄えながら、朝一番のドラッグストアに並んだ老人が多くいたのは予測不可能性のためと解釈することができる。つまり、店頭に実際にトイレットペーパーがなく、いつ入荷するか分からないことが、買い占め行動の原因だ。

裏を返せば、日本で被災地での暴動が起きないのは「被災者支援は一定の責任を持って行われる」という予測が、ある程度裏付けられているからといえるだろう。

この「裏付け」は社会的合意によっても成し遂げられる。日本の公務員は汚職が非常に少ないことがその1つだ。汚職が蔓延る国では有力者や役人が信じられず「被災者に正しい分配が行われる」という予測が立たないから暴動が起きやすくなる。 トイレットペーパーがいつ入荷するか分からないから買い占めるのと、役人が支援物資をきちんと配るか分からないから(=平等に配らないと考えて)襲撃するのは、同じ心理的メカニズムに基づく行動といえるだろう。

別に日本人が秩序正しいってわけじゃなくね?

要するに、こんなまとめができる。

  • 災害時に助け合うのは人類共通、日本人は特別ではない
  • 災害でデマが流れるのも人類共通、日本人は特別ではない
  • 災害での暴動の起きやすさは支援の予測不可能性による、その点、日本の社会システムは割と優秀

ちなみに「整然と列を作る」のも人類共通だ。どの国でも炊き出しをすればホームレスは列を作って並ぶ。支援というシステムへの信頼(予測可能性)がある限り、人は並ぶのだ。

結論として、秩序を壊すのは「文化の差」ではなく「未来への絶望」だ、と主張したい。「日本人ファースト」だと言って外国人を被災地で「区別」なんてすれば、どうなるか分かるよな?

*1:能登半島地震では、県外から入った外国籍の者を含む窃盗グループによる空き家への侵入事件が実際に記録されている。ただしこれは、無人化した被災地を組織的に狙った犯罪者の問題であり、被災者としての外国人住民が略奪に走ったという記録とは異なる。同様の犯行は日本人によっても行われ、ともに摘発されている。

その「自転車青切符批判」は世界に対する化石脳宣言かもよ?

自転車青切符の話題ですが……ちゃんと脳科学的PDCAの記事です。

いつまでそんなこと言ってんの?

来月(2026年3月現在)より、自転車の交通違反に「青切符」が適用されるようになる。しかし、いまだにこんな意見が絶えないようだ。

  • 自転車レーンを塞ぐ路上駐車を先に取り締まれ
  • 交通量の多い道路で車道走行するのは怖い
  • 子乗せ自転車にまで車道を走らせるのか

確かに自転車が安全に車道走行するためのインフラ整備、自動車ドライバーの意識改革は進んでいないので、このような意見にも一理はある。だが、今回の制度変更には重要な点が2つあることを忘れてはならない。

  1. この4月に、自転車の交通ルールが変更になるわけではない
  2. 取締りの方針に従来からの変更はなく、「青切符」という選択肢が追加されるだけ

例えば、誰もいない歩道を自転車で走行する。これは、自転車通行が許可されている歩道以外では、原則として従来から違反だ。

これまではこの状況に対し、警察は指導・注意をしてきた(実際にどの程度それが行われてきたかは大いに疑問だが)。なぜ赤切符を切らないかというと、自動車において赤切符が切られるのは行政処分では処理できない危険で重大な違反の場合に限られていて、自転車だけ単なる歩道走行で赤切符を切るとしたらバランスを欠くからだ。

4月以降も、警察はこの状況に対し基本は注意・指導をするし、特に単純な歩道走行については青切符による取締りの対象にしないことを明言している。だが、指導に従わない、歩行者の妨害をする、高速で走行するなどの場合には青切符で取り締まられることもあり得るということだ。さらには、歩行者と衝突寸前になったり、歩行者のすぐ脇を走り抜けたりなどすれば赤切符が切られることもあるかもしれない。

警察は広報にそれなりに力を入れていて、以上のような話は私が書くまでもなく既に多くの解説が行われている。それにもかかわらず、冒頭のような疑問が繰り返し示されるのはなぜだろうか?

その1つの答えは、多くの人の頭にある「自転車は歩行者の延長」という古い脳内モデルの更新に対する抵抗――認知コストに対する抵抗感だと考えられる。

その脳内モデル、蒸発してるんじゃね?

人の脳の1つの目的は外界モデルの精密化だ。外界に対し「何をしたらどうなるのか」をシミュレーションするためのモデル、それが精密であるほど生存の確率は高くなるし、欲求を実現しやすくなる。

そのために人の脳は報酬予測誤差(RPE)を利用する。現在保持しているモデルから予想される結果(予測された報酬)と、現実に起きたこと(実際に得られた報酬)の差を評価して、予測より高い報酬が得られればドーパミンレベルを高く、低い報酬であればドーパミンレベルを低く調整する。それにより高い報酬が得られやすい行動を選択させやすくする、というのが一般的な説明だが、これは「このモデルは、〇〇の行動に対し△△の報酬が得られる」というモデルの精密化でもあるといえる。

その過程はPDCAと非常によく似ている……というのが私の従来からの考えだ。そして、その弱点もまた、組織のPDCAサイクルと同じといえるかもしれない。

PDCAサイクルを繰り返すと、やがて対象のプロセスは安定し、他のプロセスを改善することの重要性の方が相対的に高くなる。そのとき、PDCAはSDCAに移行することになる。Planに代えてStandardize(標準化)を行い、標準にしたがった仕事をすることで安定したアウトプットを出し続けるのだ。

SDCAサイクルとは環境の変化に応じて標準を絶えず適応させるものだ。しかし、そこに罠がある。組織において次のようなことを体験したことはないだろうか。

  • 環境が変わった瞬間に、標準が全く通用しなくなる
  • SDCAサイクルが徐々に緩慢になり、やがて停止する
  • 環境の変化が無視され、古い標準が維持され続ける

このようなことが起きるメカニズムを「脳内SDCAサイクル」との比較で考えてみよう。

人の脳においても、モデルが十分精密化すると「標準化」に近いことが行われる。それは「エネルギーの節約」を目的とした「習慣化」だ。

脳は人体のエネルギーの20%を消費するコスパ最悪の器官といえる。そのため、脳は考える器官でありながら、なるべく考えないことを基本戦略の1つとしている。言い換えれば、外界モデルの精密化は脳の目的であると同時に、脳のリソースを消費するコストでもあるわけだ。

そのため、脳は十分に精密化されたモデルへの「良い入力」と「見込まれる報酬」を「行動のコスト」に翻訳し、行動選択プロセスに「焼き付ける」。これが習慣化だ。特定の状況でどのような行動を取ればよいかを考えずに選択する……これは、武道の稽古を繰り返し、やがて状況に応じて即座に体が反応するようになって達人と呼ばれるようになるプロセス――OODAループそのものだ。

つまり人の脳内で起きているのはSDCAというよりも、PDCA的な学習プロセスからOODAに近い反応型の行動への移行なのだ。その過程で脳内モデルはもはや必要なくなるため、モデルの維持更新を主眼とするSDCAは脳のプロセスからすれば不自然とすらいえる。結果、SDCAは思考停止の罠に常にさらされることになるのだ。

先ほど挙げた3つの状況について、以上の考察から、脳科学的観点で解釈すると以下のようになる。

これ、このワークシートにどうやって入力したらいいの?

環境の変化に対し突然標準が通用しなくなるのは、特定の環境に過度に最適化してしまう過学習が原因だ。これは、モデルの収束を急ぐあまり少ない経験に基づいた「決めつけ」が行われた結果といえる。仕事を定型化するためにExcelのワークシートを作ったが、想定外の事態が起きて入力のしかたが分からない、という状況がそれといえるだろう。

また、思いがけず巨大な報酬を得ると、1回の経験でモデルの固定化が起きる場合すらある。守株の故事は、まさにその好例だ。たまたまうまくいった(例えば、適当に歩道を自転車走行しても、事故も起きず警察に注意されることもなかった)ことを標準と誤認することは、極めて危険なことといえる。

なんで今時xlsファイルなの?

古い標準が放置されている好例がxls形式の古臭いテンプレートだ。多くは「変える必要がない」などと言い訳されるが、実際にはそのテンプレで処理できるように仕事の方を捻じ曲げることが横行しやすい。SDCAサイクルが停止しているので、更新する機会がないからだ。

SDCAのやり方そのものを組織内で標準化しないと、更新するための仕組みがなかったり、更新をする担当者が分からなかったりして古い標準が放置される場合もある。

これは、その標準でうまく回っている(実際にはうまく回しているだけということも多いわけだが)ならば、0に近いRPEしか生じないために学習(モデル更新)の動機が生じない状況といえる。

そのワークシートの変更、待ってくださいよ

既にOODAループに移行したモデルを再度更新するには、モデルを再構築するための莫大な認知コストが必要となる。そのため脳は得られるはずの報酬がなかった状況や、モデルから予測されたものと異なる結果を「ノイズ」として無視しようとする(確証バイアス)。

これが「前例踏襲」や「不都合なデータの無視」の正体だ。

安定して運用されている標準を変更する際に抵抗が生じるのは、人間の生理的な反応なのだ。思考を介さないOODAループが高速で回っているところに「ルール変更」というブレーキをかけられることに対する生理的な不快感が、その正体といえる。

本当に嫌なのは、自分の認識を置いてきぼりにしてルールが変わることなんじゃね?

以上の考察から、自転車への青切符導入に対して反発・疑問・恐怖を示す人が真に恐れていることは、路上駐車でも、整備の追いついていない交通インフラでも、子乗せ自転車が事故に遭い悲惨なニュースが流れることでもないことが分かる。

第一に、彼らは自転車は歩行者の延長、通行区分を意識する必要はなく、歩行者以上に気を使って乗る必要のないもの……そういった、「自分の認識」を変えるコストを過大だと評価している。高すぎる認知コストそのものが、恐怖の対象なのだ。

第二に、自分は認識を変えないのに「青切符」というルールが外部からやってくる――つまり、古い脳内モデルを維持している状況で、外界のモデルが変わってしまう、そして予想されるのは悪い報酬……この状況を合理的に処理する最も簡単な方法が、外界モデルが変わることを拒否し、批判することなのだ

普段からモデル更新、つまり思索の習慣があり、複雑なモデルを扱うことに慣れている人は、制度改正を批判するよりも、その合理的側面に目を向け、どのようにすれば新しい制度の下で安全に自転車を利用できるかを考えるはずだ。

確かに交通インフラの整備は遅れているし、法規にも不合理な点はある。だが、そういうすぐに変えられないことを批判するムダなエネルギーは、交通ルールを学び直したり、危険個所を避けるルートを考えたりすることに、まず使われるべきではないか

実際に車道を交通ルールを守って(=車から見て予測可能なように)走行してみれば、車は自転車をちゃんと避けるし、みんな優しいと分かるはずだ。確かに一握りは、クレイジーなドライバーはいる。だが、排除されるべきはルールを守る自転車でなく、自転車・自動車に限らずルールを無視する無法者の方だ

まとめのようなもの

自転車の青切符導入に反対して、ただ、批判を喚き散らす――SNSの投稿ボタンを押すその指先は、図らずも「私の脳は更新機能を失い、化石化しました」という宣言を世界に発信している。

インフラや制度への文句を垂れ流すより先に、自分の脳にたまった「xls形式の古臭いテンプレ」をデリートすることから始めてはどうか。

その「勇気」があなたの組織のSDCAを「再起動」させる原動力にもなるだろう。

化石脳を批判するような記事になってしまったけれど、交通ルールをまともに教育しなかった結果、経験から学ぶことを強いてきた行政の責任も重いのですけどね。道徳の教科化から随分経ちますが、そんなことより道路交通法をはじめとした誰もが必要とする法規を教えるようにした方がよかったんじゃないかな。